紀元前1000 - 800年前、エジプト古王国時代にはこの地における人の活動が確認されている。また、その後にはクレタ島との貿易のための貿易港がラメセス2世の時代にこの場所に存在していた知られているが、それは後に衰退したとみられており、後のアレクサンドロス3世の制服の時までに失われていた。また、ラコティスという小さな漁が近くで紀元前13世紀から存在していた。
しかし、「アレクサンドリア」としての歴史はアレクサンドロス3世の東方遠征にまで時代を下る必要がある。エジプトのアレクサンドリアは、アケメネス朝ペルシア帝国を破ってギリシアのマケドニア王であったアレクサンドロス3世によって、紀元前332年に建設された。当時のエジプト一帯は、アケメネス朝ペルシア帝国に併合されており、ペルシア帝国の王がエジプトのファラオを兼任するという政治体制をとっていた。アケメネス朝の地方領主を追い払ってエジプトの地へと踏み入れたアレクサンドロスは、アメン神殿においてファラオに即位し、豊かな古代エジプトの穀倉地帯と古代ギリシアとを繋ぐための港湾都市を計画した。そこで、アレクサンドロスは自身の名を冠した「アレクサンドリア(アレクサンドレイア)」の建設を行う構想を創り上げ、エジプトの海岸に大きなギリシア式の都市の構築を決定した。
アレクサンドロスはアレクサンドリアの建設地を選び、天然の良港を生成する、ファロス島に近い場所にアレクサンドリアの建設を構想し、決定した。伝説によると、アレクサンドリアの計画に及んでは、アレクサンドロス自らが馬を駆って幅の広い中央路の位置を決定したとも言われている。アレクサンドリアは、エジプトのヘレニズムの中心地としてナウクラティスの古いギリシア人の植民都市に取って代わるものであり、ギリシャと豊かなナイル渓谷との間の交易の拠点であることを意図した。その数ヶ月後、アレクサンドロス3世はエジプトを離れ、さらなる東方遠征へと向かった。その後、アレクサンドロスの人生の中でアレクサンドリアの街に戻ることはなかった。
アレクサンドロス3世の東方出発後、総督クレメネスは、アレクサンドロス3世のプランを基にしてアレクサンドリア市の拡張を続けた。ロードス島の建築家ディノクラテスは碁盤の目状の都市を設計した。紀元前323年の「アジア王」アレクサンドロス3世の死後、その後の争い(ディアドコイ戦争)を経てその部下だったプトレマイオス1世がエジプトを支配し、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝を打ち立てた。アレクサンドリアは、プトレマイオス王朝の首都として発展した。一時は人口100万人を超えたともいわれ、そのような大規模な都市はその時代の世界では類を見ないもので、そのため「世界の結び目」とも呼ばれた。プトレマイオスは一緒にエジプトに透明な棺に入れられたアレクサンドロス3世の遺体を齎した。プトレマイオスは当初、古代エジプトの伝統的な首都だったメンフィスを首府としたが、紀元前305年、プトレマイオス1世は首都をアレクサンドリアに遷した。
その後のアレクサンドリアはプトレマイオス王朝の王の下で大いに発展した。古代のアレクサンドリアは世界の七不思議の一つに数えられる巨大なファロス島の大灯台(アレクサンドリアの大灯台、現カーイト・ベイの要塞)や、各地から詩人や学者たちが集まってきた学術研究所であるムセイオン、アレクサンドリア図書館があった。アレクサンドリアの図書館は「大図書館」とも呼ばれ、文学・歴史・地理学・数学・天文学・医学など世界中のあらゆる分野の書物を集め、70万冊の蔵書を誇りながらも歴史の闇に忽然と消えた主要なヘレニズムの学習拠点でもあった。また、アレクサンドリアはヘレニズム時代の商業(地中海貿易)と文化の中心地として栄えた。主に古代ギリシア本土との交易や同じディアドコイの国家であるアンティゴノス朝の首都アンティオキア、当時勢力を伸ばしつつあった古代ローマの首都・ローマとも交易をおこなったとみられている。『幾何学原論』で知られる数学者のエウクレイデスや、地球の大きさを正確に測ったアレクサンドリア図書館長エラトステネス、アルキメデス、ヘロン、クラウディオス・プトレマイオスなどが活躍した。
ヨーロッパとアラビアとインド東部の間の新しい商業の中心となったアレクサンドリアは、現在のチュニジアに存在した大交易都市・カルタゴよりも規模が大きく成長し、その後1世紀の間に、アレクサンドリアは世界最大の都市となった。アレクサンドリアの何世紀にもわたってローマに次いで2番目に多かったとも言われている。それは多様な背景を持ち、アレクサンドリアはギリシア人と古代エジプト人、フェニキア人などが混ざり合う主要な古代ギリシアの国際都市となった。また、アレクサンドリアはヘレニズムの中心地であるだけでなく、世界最大の都市ユダヤ人コミュニティの本拠地でもあった。
その後、プトレマイオス王朝の滅亡後にローマ帝国の支配下と成ると、アウグストゥスの時代には、市壁が5.34km2の面積を占め、ローマ時代の総人口は約50万 - 60万人に減少した。初代ローマ皇帝アウグストゥスは、アエギュプトゥスをローマ皇帝の私領とした。最後の王朝であるプトレマイオス朝も含め、古代エジプトの歴代の王ファラオは神として扱われ、人間による統治は受け入れられなかった。そのため、他の属州のように「人」である一総督が支配する事を許さない状況であった。アウグストゥスの養父たるガイウス・ユリウス・カエサルは、死後にローマ元老院の決定により神格化がなされており、言わばアウグストゥスは神の子であり、この地を統治する資格を有していたとされる。ただし、ローマ帝国屈指の穀倉地帯を私領とする事で、ローマ皇帝に多大な収益をもたらしたのは事実である。
このように、当時のエジプトがローマ帝国内で重要な位置を占め、帝国の領内でもっとも豊かな穀倉地帯となるにつれて、ローマ本土との交易の中心都市と成ったアレクサンドリアの重要性も以前に増して大きくなった。
また、以前にも言及したように世界に点在していたユダヤ人の中で、ユダヤ文化にとって中心地となっていた。また、その後1世紀にわたり、アレクサンドリアはよく繁栄した。ただし、ギリシア人とユダヤ人との間でしばしば宗教を理由とする争いが起こり、特に激しい暴動が何回かあった。
1世紀には世界最大のディアスポラを擁し、哲学者フィロンらが活躍した。またキリスト教の初期から重要な拠点となり、古代神学の中心地のひとつともなった。ローマ・コンスタンティノポリス・アンティオキア・エルサレムとともに総主教座が置かれ、五大総主教座の一角を占めた。アレクサンドリア総主教庁はギリシャ正教とコプト正教会のものが現在も存続している。
4世紀以降はアレクサンドリア学派と呼ばれる神学者たちが活躍した。641年にはアムル・イブン・アル=アースにより陥落され、イスラーム世界に組み込まれた。アラブ時代当初は東ローマ帝国から切り離されたため、経済的に沈滞したが、学芸の都として性格は残り続け、古代ギリシア・ローマ文明にイスラーム文明がミックスしたアラビア科学揺籃の地のひとつとなった。
やがて、紅海からカイロを経てアレクサンドリアにもたらされたインドの香辛料を求めて、ヴェネツィアなどイタリア半島の諸都市から商人が訪れるようになると、地中海交易の重要拠点として再び経済的に繁栄した。16世紀にヨーロッパ諸国がアフリカ回りのインド洋航路を開拓するとイタリア諸都市とともに再び衰えを見せ始めるが、19世紀にムハンマド・アリーの近代化改革の一環として輸出商品としてナイル・デルタで綿花が大々的に栽培されるようになるとその積み出し港となり、国際貿易都市として三たび繁栄を始める。
現在ではエジプト・アラブ共和国の工業や経済の中心地、そして化学産業などが進出し、エジプト屈指の工業都市として発展を続けている。
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