クレオパトラの墓とは、エジプト・プトレマイオス朝最後の女王、クレオパトラ7世フィロパトルの墓である。あのエジプトの絶世の美女の墓であるが、そのありかはまだ発見されていないという。
クレオパトラとマルクス・アントニウスは、プトレマイオス朝エジプトの古代ローマの占領の後、彼らを死に追いやったオクタヴィアヌス(後の初代ローマ皇帝・アウグストゥスである)によって埋葬を許可されたという。
自殺したと伝えられる2人の墓の所在は長年、不明であり、エジプトのアレクサンドリアの近郊にあるとされている。古代ローマにおいて活躍した歴史家スエトニウスとプルタルコスによると、ローマの指導者オクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)はプトレマイオス朝のエジプト帝国を滅ぼし、古代ローマの支配下に置いたのち、自殺したクレオパトラ7世とアントニウスの埋葬を許可したという。
現在判明している、クレオパトラの墓に関する事実は少ないが、その中でも下に挙げるものは重要な手がかりであるとされるものである。
その愛人マルクス・アントニウスとともに埋葬されている。
その墓はアレクサンドリアの周辺に存在する。
その墓は、古代エジプトのファラオに相応しい豪華なものである。
1 の「その愛人マルクス・アントニウスとともに埋葬されている」ということに関しては、古代エジプトと古代ローマ帝国、双方の記録に残されているので、ほぼ間違いない事実であると言っていいであろう。
現在の歴史学によると、その候補地はいくつか挙げられるという。例えば、プトレマイオス朝エジプトを代表する神殿・タップ・オシリス・マグナ神殿(ページトップの画像)などである。この神殿は、アレクサンドリア近郊にあるky度合いな神殿複合体で、ギリシアの建築と古代エジプトの建築が融合した建築で建てられていたと推定されている。
2008年と2009年の報告書は、エジプト学者のザヒ・ハワス博士(考古最高評議会(SCA)長官)が、エジプトのアレクサンドリア西方に位置するオシリスを祭る神殿であるタップオシリスマグナ神殿跡でプトレマイオス朝時代の墓を発見した(と発表した)ことに焦点を当てている。ドミニカ共和国出身の刑事弁護士で考古学者のキャサリン・マルティネス博士の指揮の下で行われた発掘調査では27体のミイラや貴族の墓、クレオパトラの横顔が刻印されたコイン、そして、2人を抱きしめて描いた彫刻がある。
これまでのところ、墓の位置はまだ分からないが、2011年には地中貫入型レーダーを使って地下の追加の敷地が確認され、神殿の発掘調査が続いている。
しかしながら、考古学界の説には必ず批判が付きまとうものである。やはり、この説にも反論が存在し、その学者は「エジプト人は、寺院の中に埋葬されなかった」と主張している。
2019年1月、イタリア・パレルモ大学での会議でのザヒ・ハワスの発言に起因する墓の発見が差し迫っている可能性について論争が起こった。エジプト学者は新聞の記事でニュースを否定し、墓がタップオシリスマグナ神殿の内部にあったという論文は彼のものではなく、キャスリーン・マルティネスの論文であり、「エジプト人は決して神殿の中に埋葬されなかった」という理由でマルティネスの仮説を信じなかったことを肯定した。
したがって、現在、クレオパトラがそこに埋葬された可能性は低いと考えられるに至っている。
何のかんの言って、クレオパトラの墓には謎が当分の間、付きまとうようだ。
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