古代エジプトに、ナイル川上流のヌビア地域と古代エジプト帝国を、ただ一人の君主として君臨することに成功した王が存在した。彼の名はタハルカ(英語:Taharuqa)。彼は、古代エジプト第25王朝4代目の王(在位:紀元前689年 - 紀元前664年) として、また、ヌビア王国の国王として、ナイル川沿岸の両地域に跨る帝国の王として支配した。
彼の属するこの王朝はナパタ王朝、エチオピア王朝あるいはクシュ王朝とも呼ばれ、王はエチオピアのナパタの出身である。
なお、ここでいう「エチオピア」は、古代のエチオピアであり、ナイルの王国を指している。
タハルカは、最初にエジプトを征服したヌビア王ピアンキ王の息子であった。また、タハルカは第3代王シェビトクのいとこであり後継者でもった。ピアンキ王とシャバカ王の軍事的な成功は、タハルカの繁栄の治世への道を開いた。
その後、タハルカは紀元前690年、31歳のときにメンフィスで戴冠し、26年間エジプトとヌビアを支配した。彼は、初めナイルデルタ地帯の古都タニスに都をおいた
豊かで平和な時代を統治し、カルナック神殿の第二列柱を含む多くの建設事業を行った。妹をアメンの神妻の地位につけ、内政も安定させた。ヌビアとエジプトという大きな版図を支配し、かつての大王ラメセス2世にも匹敵する勢力を誇ったが、同時に、ラメセス2世の時代と同じく強力な異国の攻撃を受けることになる。アッシリア帝国だ。
当時、エジプトとアッシリアの間にある国々のうち、パレスティナの小国群はエジプト寄りだが、イスラエル・シリアの国々は既にアッシリアに支配されている。本格的な侵攻は、サルゴン2世の孫、エサルハドンの時代に起こり、戦線はシナイ半島からナイルデルタ、メンフィスへと後退していく。
エサルハドンは、紀元前671年のエジプトに対する勝利ののち、時刻の戦勝碑をたて、タハルカの皇太子を捕らえたと記している。
アッシリアの王・エサルハッドン、後にはその子のアッシュールバニパル王に率いられた強国アッシリアの軍勢に侵入を受けて、拠点メンフィスは陥落し、下エジプトを失ってからは上エジプトの聖なる都・テーベを根拠地とした。
古代エジプトの諸侯たちはタハルカ王のもとに結束して戦い、一時はアッシリア帝国に対して勝利を収めたものの、エサルハドンに続く子のアッシュールパニパル王に攻め落とされる。
アッシュールパニパルはさらに戦線をエジプト内部まで推し進め、ついにテーベが陥落し、タハルカはさらにナイル川上流のヌビア王国の都・ナパタに王宮を遷した。
彼の生きている間に再び古代エジプトとヌビア王国の両方を支配する帝国の復活藩されることがなかったが、それでもヌビアの王として支配し、アッシリア帝国との対立も続いた。その後、晩年は第25王朝最後の次王タヌトアメン王と共同統治した。
また、彼はヌビアの王として都ナパタなどにも建築物及び彫刻の奉納をさかんに行った。
ヌビアの王として彼が生存する間、第24王朝の末裔とされるネカウ1世がアッシリアの後ろ盾のもと下エジプトを支配するようになる。第26王朝の開始である。ネカウ1世と、その息子プサメティク1世を首都ニネヴェで教育し、傀儡政権に仕立て上げようとした。
彼は、テーベ(現在のルクソール)のカルナック神殿のアメン大神殿には、タハルカの祠堂とも称される建物跡が残っている。その建造物は、聖池の北西に位置し、地下には太陽神が毎夜、地下を旅して、毎朝再びスカラベとして復活する描画がある。
また、「タハルカのキオスク」と呼ばれると呼ばれるものを建設し、アメン大神殿の中庭に建造させ、タハルカ王の権威を示した。しかし、それは後の支配者たちによって破壊された。しかし、その中で「タハルカの円柱」と呼ばれるものは復元されている。即ち、カルナックのアメン大神殿の第1中庭にある1本の巨大な円柱は王の造らせた列柱廊の名残りで、ヌビアのエジプト支配の象徴である。
その他にも、タハルカは古代エジプト全土に自分の姿や名を刻んだ彫像や石碑を造らせた。それらの多くは今、世界中の博物館にある。だが、彫像のほとんどは、敵に顔を削りとられている。死後によみがえる力を奪うために、鼻をへし折られた彫像も多い。
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