古代ダルマチアには、イリュリア語を話すイリュリア人と呼ばれる民族が居住した。イリュリア人の祖先は、青銅器時代の初期にはイリュリア地方に定着し、非インド・ヨーロッパ語族の祖先(エトルリア系?)と混合したと考えられている。紀元前5世紀頃には、イリュリア人の勢力範囲は北に広がって、現スロベニアのサヴァ川周辺まで伸びた。
古代ギリシア時代には、ダルマチアにはイリュリア王国が存在した。また、紀元前4世紀にバルデュリスが現れて、イリュリア王国を強大な力を持つ国に変えた。この王国は、イリュリア人によって建国され、交易などにより発達した。
一時代にはマケドニア王国の一部を支配下に置くなど栄華を誇ったが、勢力を拡大していた古代ローマ(共和政)によって紀元前220年から紀元前168年に起こったイリュリア戦争の結果征服され、この地域を支配していたイリュリア王国領の南半分は共和政ローマの保護領となる。
なぜ、イリュリア戦争が勃発したのか。それは、ローマ大使のイリュリア王による殺害だったという。
その後、周辺領域を加え紀元前32年から紀元前27年頃にはイリュリクム属州となった。現アルバニアに存在し、首都はスプリトの近くのサロナエであった。紀元6年から9年にパンノニア族とダルマチア族が反乱を起こしたがローマ帝国に鎮圧され、10年にイリュリア属州は南北に2分割され北側にはパンノニア属州、南側にはダルマチア属州が設立された。
最後の大イリュリアの反乱として総称される多くの蜂起が紀元9年にティベリウスによって鎮圧され、反乱の終結後、ダルマチア全土で古代ローマ文明が一般的に受け入れられ、ローマ帝国に完全な支配を受けた。
ダルマチア属州はアドリア海沿岸部から、ディナル・アルプス山脈を含む内陸までの領域とされ、現在のダルマチア地方よりかなり広い地域であった。
その当時のダルマチアの主要な都市は、以下のとおりである。
タルサティカ (テルサット、現在はフィウメの一部)
セニア (マーク)
カルロパゴ (カルロバッグ)
アエノナ (ノナ)
イアデラ (ザダル)
スカルドナ (スカルドナ、スクリベニックのすぐ北)
トラリウム (トラウ/トロギール)
エークム (シンジ)
オネウム (アルミサ、スプリットの南)
イッサ (リッサ)
ファルス (チッタヴェッキア・ディ・レシーナ)
ボナ (ブラガイ)
コルシラ (クルゾーラ/コルチュラ))
ナローナ (現在のメトコビッチ近くのヴィッドの小さな町)
エピダウロス (ドゥブロヴニク)
リジニウム (リサン)
アクルビウム (コトル)
ダルシニウム (ダルチーニョ)
スコドラ (シュコダー)
ディラシウム (ドゥラッツォ)
ダルマチア属州はドミナートゥス性を確立させたことで著名なディオクレティアヌス帝(在位 284年 - 305年)の出身地であり、また隠棲の地、サロナのディオクレティアヌス宮殿の建設地とされ、ローマ皇帝退位後はこの地で余生をゆっくりと過ごした。なお、都市「サロナ」とは、現在のスプリト市である。
また、この頃に「ダルマチア」という名称は初めてローマ帝国の属州の名として登場した。それまで専らイリュリアであったが、その後は殆ど使われなくなった。なお、イリュリアがさらに広範囲を指すのに対し、ダルマチアという名は沿岸部の事を指すようになる。
395年、ローマ帝国はテオドシウス1世のもと1人の皇帝によって支配された後、二人の息子アルカディウスとホノリウスに分割され、ギリシアの西で分割線が引かれたため、西ローマ帝国皇帝の所領となった。
その25年後の420年頃、後の西ローマ皇帝グリセリウスはダルマチアの地で生まれた。出生年月日は不詳である。
430年頃、後の西ローマ皇帝フラウィウス・ユリウス・ネポスは、ローマ帝国の貴族であったネポティアヌスの息子として生まれたと考えられている。後にネポティアヌスは皇帝から軍務長官の一人に指名され、461年から南ガリアやヒスパニアの帝国領に派遣、465年に任地で死没したと記録されている。
468年、貴族フラウィウス・ユリウス・ネポスはダルマチアの支配者となった。4年後、472年の春、西ローマ皇帝アンテミウスはゲルマン人の将軍リシマコスによって殺害された。彼の後継者の任命は、合法的に東ローマ皇帝レオーン1世の手に委ねられた。
彼は操り人形の西ローマ皇帝としてオリブリウスとグリセリウスを西ローマ皇帝として任命した。しかし、彼はブルグント人とのつながりが強く、操り人形には適さず、よりレオーン皇帝の言いなりになりやすい人物をレオーンは選び出した。
473年、レオーン帝はダルマチアの支配者フラウィウス・ユリウス・ネポスを合法的な西ローマ皇帝に任命した。474年6月、ユリウス・ネポスはアドリア海を横断し、ラヴェンナ(西ローマ帝国の帝都)に入り、グリセリウスを退位させ、西ローマ皇帝の位を確保した。
追放されダルマチアの都市サロナ(現在はクロアチアのソリン)の主教に叙任し、グリケリウスは神への奉仕に身を捧げた。
しかし、その翌年彼の傭兵オレステスは反乱を起こし、その結果として、ネポス帝は本拠地サロナに逃げることを余儀なくされました(475年8月28日)。オレステスの息子ロムルス・アウグストゥルスは数ヶ月以内に西ローマ皇帝を称したが、父親がゲルマン人傭兵であったオドアケルの反逆によって父親が処刑されると、オドアケルによって翌年に退位を余儀なくされた。
しかし、ユリウス・ネポスは、480年までダルマチアで唯一の西側の皇帝、ダルマチアはまだ西ローマ帝国の行政の一部である、として支配し続けた。
480年、ダルマチアの司教となっていたグリセリウスはユリウス・ネポスの殺害に対する陰謀に関った。その結果、ネポス帝は自らを警護する護衛兵の手によって暗殺された。詳しい時期については諸説があり、暗殺日については4月25日説・5月9日説・6月22日説の三つが挙げられている。ダルマチアのサロナ市にある宮殿に滞在している際、兵士によって刺殺されたというが、もしかしたら、この宮殿はディオクレティアヌス帝が建設した離宮と同じ建物であったかも知れない。
同年、グリセリウスはサロナの聖職者として死去した。
480年にユリウス・ネポスが死去した後、コンスタンティノープルのゼノン皇帝の下で、帝国は正式に単一の帝位の支配下で、オドアケルの帝位返上によって「再統一された」とされた。ダルマチアは、コンスタンティノープルの東ローマ皇帝から支配されたローマの領地となり、したがって後世ビザンチン帝国と呼ばれる歴史学で呼ばれる帝国の一部となった(歴史的には、その存在を通じて「ローマ帝国」として知られ続けた)。
西ローマ帝国の崩壊により、この地域はゴート人の支配者、オドアケルと彼を倒してイタリア半島でイタリア王位を称することとなったとテオドリック大王の侵攻の対象となったが、476年から535年、結果的には「大帝」とも称される東ローマ皇帝・ユスティニアヌス1世によってビザンチン帝国の支配下に加えられた。
下はギャラリーです(左上:サロナのディオクレティアヌス宮殿、右上:ローマ時代碑文中での「ダルマチア」の表記、左下:サロナ遺跡、右下:ユリウス・ネポス皇帝)。
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