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古代ローマ支配下のブリタニア



上は、ローマ時代の伝説をモデルとする、ロンドン市内の銅像。



ローマの支配の開始


紀元前55年には、ローマの軍人・政治家ガイウス・ユリウス・カエサルが侵入、帝政移行後の紀元後43年にはローマ皇帝クラウディウスによってブリテン島への遠征が行われた。その結果、現在のイングランドの大部分がローマ人の軍隊によって占領されることとなった。


ローマ軍はイングランドにあたる地域を征服したのち、紀元後79年にはローマの将軍グナエウス・ユリウス・アグリコラがカレドニアに攻め入ってきた。カレドニアは現在のスコットランドにあたる地域の古称である。カレドニアの先住民たちは激しい抵抗をみせたが、ローマ帝国は82年から83年に艦隊をオークニー諸島にまで及ぶスコットランド沿岸に展開して威嚇し、84年のモンス・グラウピウスの戦いで、遂に現地のカレドニア人を破った。その後、アグリコラの部下たちは、ブリテン島全土の平定を宣言し、ここにローマの征服事業は終焉を見た。


ローマはこの地域を「ブリタンニア」と呼び、ブリタニアに建設された属州の名称は「ブリタンニア属州」と呼ばれた。これが現在の「ブリテン島」の名称の起源である。又、入植したローマ人は在地のケルト人を「ブリトン人」と呼んだ。


ただし、スコットランドの最北部、アイルランド地域にはローマの支配は及ばず、この地域のケルト人が度々イングランドに侵入してきたため、ローマ人によって現在のイングランドとスコットランドの境界付近に長城が建設された。その後300年にわたってローマは当地を支配しつづけた。


ローマは防御線を建設して異民族からの防御を固めた。最古のものはパースシャーのガスク・リッジとよばれるもので、紀元後70年代から80年代にかけて建設されたと考えられている。120年代、ローマ皇帝ハドリアヌスは、タイン川からソルウェー湾河口にかけて長城の建設を命じた。これが後世、「ハドリアヌスの長城」であったり「ハドリアヌスの城壁」と呼ぶものである。その20年後、ブリタンニア総督ルリウス・ウルビクスがアントニヌスの城壁と呼ばれる長城を、さらに北に建設した。アントニヌスの城壁はハドリアヌスの長城の半分の長さしかなく、その短さが防御に適していると考えられたが、結局その防御線を維持しえたのは20年に満たなかった。


160年ごろにはローマの北端はふたたびハドリアヌスの長城まで後退し、ローマ人たちはカレドニアの直接支配を結局諦めた。この理由は、人口密度が低すぎて徴税効果が上がらないであろうこと、および気候・風土がローマ人に合わなかったことなどであったと考えられている。ローマのカレドニア支配はヴォタディニー族(古英語:Votadini)などを通して間接支配という形をとっていた。ローマ撤退後のカレドニアにはローマの影響を受けたブリトン人の一派及びピクト人と呼ばれるケルト人の一派の民族が居住した。


ローマ支配下の平和


ローマ帝国時代のブリタニアは比較的騒乱などもなく平和で、古代ローマに由来する文化を取り入れることによって、文化的にも大いに発達した時代であったとされている。従来の民族であるブリトン人及び支配階級として鉄器文明をもたらしていたケルト人、更にその上に古代ローマの貴族が総督として派遣され、支配していた。


また、この時期、後世の大都市となる年がローマ人の手で建設されていった。その代表的な例が現在の首都ロンドンで、ローマ人は軍事的な要所として、現在のシティ・オブ・ロンドンのあたりに建設された。当時の名を「ロンディニウム(ラテン語:Londinium)」といった。この都市は、ローマ人が紀元後1世紀頃に造った街であり、テムズ川北岸の一画を3辺の城壁で囲み、川に橋をかけて建設された。「ロンディニウム」は、先住民族であるケルト民族の言葉で「沼地の砦」を意味するとされている。


その後、ブリテン島南部の商業の中心地となり、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であったコルチェスターから取って代わった。2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があったといわれている。最近の2つの発見により、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。後に、その地域はイギリスの商業の中心地「シティ・オブ・ロンドン」となった。


その他に、一説には古代ギリシアのトロイ王国の滅亡後、その王族の末裔が古代ローマを経由してこの地に「新トロイ/ニュー・トロイ」を建設し、それが後のロンドンと成ったという。


ローマ時代にはブリタニアの要塞エボラクム (Eboracum) が発展し、それは後に「ヨーク」として発展し、中世には大都市として知られるようになった。「ヨーク」の名前の由来は「イチイの木」(yew trees) といわれている。ローマのブリタニア征服時より、一帯はローマ人にブリガンテスとパリジという名前で知られた種族に占領されていた。ブリガンテス族はすぐに隷属を受けたがのちより敵対的になった。結果として、第9軍団ヒスパナがハンバーの北へ送り込まれた。


第9軍団ヒスパナがはブリガンテス族を征服した後、フォス川とオウス川の交わる平地に軍事要塞カストラを建設した。要塞はのち石で再建され、総面積は50エーカー (20ha)で6000人の兵士が暮らした。ローマ時代の要塞のほとんどは今の基金管理下にあり、ヨーク・ミンスター内地下室の遺跡は原型の城壁を露わにしている。


ハドリアヌス、セプティミウス・セヴェルス、コンスタンティウス1世らローマ皇帝は全員、彼らの遠征の最中、ヨークで宮廷をかまえた。滞在期間、セヴェルスはヨークをブリタニアの首都とするよう命じた。彼はヨークにコロニアか都市の特権を与えようとしたのだった。


その他、ローマ人はブリテン島で痕跡が確認されているものだけでも約500か所のヴィラを営んだ。「ヴィラ」とはローマの富裕層及び貴族の都市の郊外に設けた豪奢な別荘のことである。また、ローマ人は100か所のタウンを建設したとされる。そして、それらを結ぶ総延長5000マイルを超える道路網や、カー・ダイクのような溝渠を建設した。ローマ時代のブリテン島の総人口は50万人から150万人と諸説あり、正確な数はわかっていない。


ローマ支配の衰退


しかし、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の崩御後に起こった動乱を原因とする「3世紀の危機」が起こった軍人皇帝時代になると、次第に辺境に位置していたッブリタニアの支配も不安定になって行く。


4世紀の前半、時の西ローマの正帝(「西ローマ皇帝」とは異なる)であったコンスタンティウス・クロルスは、カレドニアのピクト人を討伐すべくブリタンアに進発した。その後、後のローマ皇帝コンスタンティヌスはブーローニュにいたコンスタンティウスと合流した。


この遠征から戻った後、306年7月25日にエボラクム(現:ヨーク)でコンスタンティウスは急死した。ここでコンスタンティウスが持っていた正帝位の継承はガレリウスによって決定されるべきものであったが、ブリタンニアの兵士たちは即座にコンスタンティヌスを新たな正帝として歓呼した。この兵士たちによる皇帝への推戴が自然発生的なものであったのかどうかは不明である。その後、コンスタンティヌスはローマ帝国を一人で統べ、「大帝」と呼ばれた。


その後、ブリタニアで即位したコンスタンティヌスによって統一が再びなされるものの、古代末期・4世紀に入ると、ブリタンニアは2方面からの攻撃にさらされるようになった。西部からのアイルランド人の攻撃と、東部からのサクソン人の攻撃である。


サクソン人は、一般的に言う「ゲルマン人の大移動」の流れに乗って、内陸部の寒冷化から逃れるため、当方からのフン族の大移動に押される形でブリタニアに上陸したのであった。ブリタニアでは、原住民や現地駐屯軍反乱が相次ぎ、ローマ人の活動は次第に低調になっていった。


ローマ支配の終焉


ローマ帝国の東西分裂の後、5世紀になるとゲルマン人の侵入が始まりローマ帝国に混乱が広まった。


407年にコンスタンティヌス3世がローマ皇帝を称し、残軍を率いてブリタンニアを離れたとき、ローマはブリタニアでの植民をあきらめて大陸へと引き返したため、ローマのブリタニア支配は終焉を迎えることとなった。


5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀からアングロ・サクソン人がルンデンヴィックで知られる開拓地がローマ人の古い街のわずかに西に築かれ、人口は1万2000人程度に達した。ただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。


ローマ軍が去った後、再びブリタニア本来の姿を取り戻すこととなる。この頃既に西ローマ帝国ではイタリアやガリアにゲルマン人が侵入し、ラヴェンナの西ローマ帝国の宮廷にはイタリアから遠いブリタンニアを維持する力は残っていなかったのである。残された属州の住民たちは自分たちで防衛と自治に当たらなければならず、このことは410年に皇帝ホノリウスがブリタンニアに送った手紙に現れている。


449年にアングロ・サクソン人がブリテン島に本格的に侵入をはじめ、元々住んでいたケルト系住人はアングロ・サクソン人に征服され同化し、一部はコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出される形になった。これが現在、スコットランドやウェールズの言語や文化がアングロ・サクソン人が定住したイングランドとは異なるものとなった所以だという。


ただし、アングロ・サクソン系諸王国が形成されるまでのブリタニアには歴史記録が乏しく、正確なことはあまり分かっていない。


ローマ人の撤退以後、ブリタンニアでは古来からのブリトン人の部族制が復活する。それぞれが王を戴く部族国家が乱立し、政治的統一がされる前にゲルマン系アングロ・サクソン人の侵入を迎える。混迷の暗黒時代の到来である。


グレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人(アングル人・ジュート人・サクソン人)はノーサンブリア王国、マーシア王国、イーストアングリア王国、エセックス王国、ウェセックス王国、ケント王国、サセックス王国などの7つの部族連合を基とする王国を建設し、たがいに覇権を争った。このイングランドに7つの王国が並立した829年までの380年間を七王国時代と言う。


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