古代史からちょっと外れて(とはいえ、元々は古代の流れを汲む名門なのですが)。
今回は、中世・東ローマ帝国のパレオロゴス王朝の末裔にあたる、一人の女性についてお話します。彼女の名は、ドミティア・パレオロギナ。
ドミティア・パレオロギナ(ギリシア語: Δομιτία Παλαιολογίνα, 14世紀ごろ)は、14世紀のイタリアに生きた一人の女性である。しかし、彼女の父、コンスタンティノス・パレオロゴスはローマ教皇庁の衛兵体調を務めるという超名門、更には彼女の曽祖父は東ローマ皇帝という名門に生まれた。しかし、彼女は非嫡出子としてうまれた。ドミティアの存在については幾つかのイタリア文献が言及するのみであり、彼女の存在には否定的な見解も少なく無い。
なぜ、そんな高貴な家柄がイタリアのローマなどに居るのか。それは、1453年、トルコ帝国の来襲によって、無残にも最期の皇帝コンスタンティノス11世は戦火の中殺害され、皇族はみな亡命を余儀なくされたのであった。その中の一人、モレアスの領主・トマスはイタリアのローマ教皇の庇護を請い、無事ローマに亡命することができた。その子供がアンドレアス・パレオロゴス、その子がコンスタンティノスであった。
なお、トマスの父は東ローマ皇帝マヌイル2世パレオロゴス、その父も東ローマの皇帝だった。
父親はローマ教皇庁の衛兵をつとめたコンスタンチン・パレオロゴス。彼はモレアス専制公ソマス・パレオロゴスを祖父に、同じくモレアス専制公アンドレアス・パレオロゴスを父に持つとされる。アンドレアス・パレオロゴスは1453年のコンスタンティノープル陥落の影響でイタリアのローマ教皇のもとに亡命した経緯をもつ。ソマス・パレオロゴスの父は皇帝
ドミティア・パレオロギナはパレオロゴス家に連なる家系に生まれた。祖父はアンドレアス・パレオロゴスで、1480年、妻カテリーナとの間に生まれたのが父コンスタンチン・パレオロゴスであった。
コンスタンティノスは後に妻をめとって非嫡出子であるドミティア・パレオロギナをもうけた。当時、教皇庁が存在し、文化・宗教・芸術・学問の中心地であったローマに父と共に住んだ。ドミティアはローマの地で育つ。
父コンスタンティノス・パレオロゴスの死後、教皇インノケンティウス3世を排出した名門貴族、コンティ家の一員、エヴァンドロ・コンティの妾となった。エヴァンドロとの間には2人の双子の息子をもうけ、長男はマレッツィオ・コンティ(ラテン語読み:マルス)、次男はジョヴァンニ・チェーザレ・コンティ(ラテン語読み:カエサル)と言った。しかしドミティアの父がそうであったように、彼らが東ローマ皇帝、もしくはその後継者、モレアス専制公等の称号を名乗ることは無かった。
その後、イタリアのローマで死去したとされる。彼女の没年、埋葬等の情報は不詳であり、墓所も分かっていないとされている。彼女の後半生は、まさしく「ミステリー」で包まれていた。
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