今回は、世界的にも著名である「世界の七不思議」について解説する。ほかにも「中世世界の七不思議」などをはじめとする、様々な「七不思議」が存在するが、今回は「古代世界の七不思議」を紹介する。
基本的には、「世界の七不思議」と言えば、ビザンティウムのフィロンの書に記述された、「七つの景観」についての記述がもととなった、世界でも珍しい、又は素晴らしい建造物を七つ挙げたものである。
本来、ビザンティウムのフィロンの述べたものは、「θαύματα」(Theamata) であり、これは本来ギリシア語で「眺めるべきもの」といった意味である。これが、ラテン語の「Septem Miracula」(驚異、奇跡)を経て、英語の「Seven Wonders of the World」となったため、実際には「不思議」を意味していなかったという。
現在、一般的には、古代世界の七不思議として伝承されてきた、ギーザの大ピラミッド、バビロンの空中庭園(バビロンの吊り庭)、エフェソスのアルテミス神殿、オリンピアのゼウス像、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟、ロドース島のへーリオスの巨像、アレクサンドリアの大灯台の7つを指している。
ギーザの大ピラミッド
エジプトのギーザ(ギザ、Giza)に建設された、世界の七不思議で唯一現存する建造物である。
建築年代については諸説あり、一般的にエジプト古王国時代・エジプト第4王朝のファラオ、クフ王(ギリシア語では「ケオプス」とギリシア語風の名前で呼ばれた)の墳墓として紀元前2560年頃に20年前後かけて建築されたと考えられている。
クフ王の父、スネフェルは、ダハシュールの崩れピラミッドやその他の地域にも、少なくとも4つほどのぷらみっどを建設した、古代エジプト屈指の建築王であったことが知られている。
そのスネフェル王が、現在我々が「ピラミッド」と言えば想像するピラミッド型、即ち「真正ピラミッド」を発明した。その父のピラミッドの様式を受け継ぎ、更に発展させたのがこのクフ王であったといえよう。
現在高さ138.74m(もとの高さ146.94m)、底辺230.37m、勾配51度50分40、容積約235.2万m3で、平均2.5tの石灰岩を約270万-280万個積み上げたと計算される。
長さと高さの比は黄金比であるとする俗説があるが、実際に計算すると黄金比との相対誤差は3パーセント強であり、方位の誤差で1分 (1度の60分の1の角度) 程度に収まるピラミッドの建築技術に比して際立って大きい。
完成時の高さ146.94mは、14世紀に英国・リンカーン大聖堂が完成するまで世界で最も高い建造物であった。
紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』において、「クフ王のピラミッド」として報告されているが、この時点で建設から2000年以上経過していた。
その当時、後世のファラオ達がほかの神殿などを建設するために、外側にあった化粧用の大理石をはぎ取っていたと思われるため、建造当時のまさに「輝かしい」姿とは全く異なっていただろう。しかし、そんな姿でも後世の人々を魅了し続けたのだから、よほど偉大な建物だ、と言っていいだろう。
なお、ピラミッドの語源は諸説あって確定できない。語源の最も有力な説は、後世古代エジプトを支配した王朝の支配者たちの言語であったギリシア語において、「三角形のパン」という意味を指すピューラミス(πυραμίς pyramis ピラミス、ピラムスとも)に由来する、という説だ。
ちなみに、古代エジプト語では、「メル」といった。ミル、ムルとも発音する。
バビロンの空中庭園
バビロンの空中庭園は、古代ギリシア世界の七不思議の1つに数えられ、古代土木技術の偉業とされる。
バビロンの吊り庭園(バビロンのつりていえん)ともいう。名前からは、重力に逆らって空中に浮かぶ庭園が連想されるが、実際には高台に造られた庭園である。
何層もの階段上に庭園が配置され、様々な種類の樹木、つる植物が植えられた。泥れんがを積んで大きな緑の山に似せて造られ、今日のイラクのバービル県ヒッラ付近にあった、古代都市バビロンの中に建設されたと言われている。
言い伝えによると、新バビロニア帝国の王ネブカドネザル2世(治世紀元前605 - 562年)が、メディア帝国出身であり、彼の妻であるアミュティス王妃のために、彼の巨大な宮殿の脇に空中庭園を建設したという。望郷の念に囚われた王妃アミュティスは、自分の故国メディアの緑の丘や谷を懐かしみ、彼女の感傷を癒やすためにこの庭園が建設され、人間の業を超えた偉業として知られるようになった。
高所の植物に水を与えるための技術としては、恐らくアルキメデスのらせんが使用されたのではないか、と考えられている。
その後、新バビロニア帝国の繁栄の間は、バビロンの街と同じく、大いに繁栄し、人々を楽しませた空中庭園だが、アケメネス朝ペルシア帝国の制服の後は都としての繁栄は終焉を遂げ、その後セレウコス朝シリアの時代になると、全く空中庭園については顧みられなくなった。
そのおかげで、後世の著述家たちは、廃墟に等しかったとしている。
バビロニアの祭司ベロッソスが紀元前290年頃にこの話を記しており、後にフラウィウス・ヨセフスが引用している。
また、空中庭園は、古代世界の七不思議のうち、位置が確定していない唯一の遺跡である。空中庭園に言及しているバビロニアの文書史料は無く、バビロンにおいてその存在を証明する考古学上の証拠も見つかっていない。
また、王妃の話についても、史書においては言及はない。その他にも、バビロンの遺跡からは、「空中庭園」と言われるような庭園は全く見つかっていない、等の理由から、アッシリア帝国の帝都ニネヴェにあった庭園をモデルにした、とか、様々な庭園が合わさったものだ、とかいう説がある。
エフェソスのアルテミス神殿
紀元前6世紀半ば、狩猟、貞潔、豊穣の女神アルテミスを祭る神殿である。アルテミス神殿は、現在のトルコの港町イズミルから南に50kmほど離れたところにあった古代都市エフェソスに建っていた巨大な神殿建築として知られる。
異なる記述も様々あるが、プリニウスによれば、神殿は、広さが縦115メートル、横55メートルで、高さ18メートルのイオニア式の柱127本からなっていたとされている。
建造された当時は、世界遺産のアテナイのパルテノン神殿の倍近くの規模を誇った。その壮麗さから古代世界七不思議の一つに数えられ、古代ギリシャの歴史家ストラボンは、7回破壊され7回再建されたと記している。現在は復元された柱が1pンと、残骸が散乱するのみとなっている。
最初の神殿は紀元前700年頃に建てられキンメリア人によって破壊された後、紀元前550年頃にリディア王国の王クロイソスによって再建されたと伝わっている。その後、紀元前356年に放火で再び失われ、紀元前323年に三度再建された。
この神殿が世界の七不思議となった理由は、その美麗さや壮大さが素晴らしかったからなのではないとされる。むしろ、ギリシア世界の境界近くにあったため、ギリシア人に神秘と畏怖の念を与えたため、七不思議に選定されたのだ。
神殿の内部は大理石の板石で飾られ、大きな入り口プロナオス・主要な広間ツェル・後方の小部屋オピトドムから構成された。ツェルには高さ15メートルのアルテミス像が置かれた。その像は木製で、顔と手足の先以外は黄金や宝石で飾られていた。
エフェソスのアルテミス神殿を発見したのは、イギリス人技師ジョン・ウッド率いる、大英博物館の考古学探検隊である。彼らは、19世紀にはもう幻の遺跡となっていた1863年から7年にわたりエフェソスの発掘を続け、1869年12月についに深さ4m半の泥の中から幻の神殿跡を発見したのであった。
彼らが発見した円柱の断片などは、現在でもイギリス・大英博物館に所蔵されている。
オリンピアのゼウス像
紀元前435年に古代の高名な彫刻家ペイディアスによって建造された、天空神ゼウス(ローマではユピテル/ジュピター)の彫像。古典古代、紀元前5世紀頃にオリンピアにゼウス神殿が建造された。その本尊としてまつるために作られ、主に古代オリンピック(オリンピア祭)における奉納競技の本尊とされていた。
本体は杉の木で作られ、表面を象牙で覆っていた。表面の乾燥を防ぐために、常にオリーブ油を塗布していた。座席は金、象牙、黒檀、宝石で飾られていた。右手には勝利の女神ニケーの彫像を持ち、左手にはゼウスの象徴であったが止まった錫杖を持っていたとされている。
ゼウス像はこの神殿の奥に収められ、その全幅は神殿の通路の幅とほぼ同じだった。座像でありながら、全長は約12メートル(約40フィート)もあった。紀元前1世紀頃の地理学者ストラボンは「もし、ゼウス像が立ち上がったら、屋根を突き抜けてしまうだろう」と記述している。
その彫刻の神々しさから、全ギリシャの崇敬を集めた。
紀元前2世紀頃の古代ローマの将軍ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス(マケドニアを征服したために「マケドニクス」の称号が与えられた)は、マケドニア王国の地を征服した際、この像を見物したが、その時、あまりの神々しさに強い畏敬の念を感じたという。
建造から800年後の394年、ゼウス像はオリンピアから東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノポリス(のちのコンスタンティノープル)に移された。
紀元前391年、キリスト教を深く信仰するローマ皇帝、テオドシウス1世は異教の集会への参加を禁止し、それと時を同じくしてオリンピアの寺院は閉鎖された。その後、オリンピアの聖域はさびれて衰退し、昔に思いをはせる人物もいなくなったという。
その後のゼウス像の消息は不明である。11世紀の東ローマ帝国の歴史家ゲオルギオス・ケドレノスは、紀元前475年にラウサス宮殿の大火で破壊されたコンスタンティノープルに運ばれたということを記録している。その後、後年に焼失したものと考えられている。
或いは、425年のオリンピア寺院の火災に際に焼失したとも考えられている。
その形の詳細は、古代ギリシャの記述やコインのゼウス像の表現からしか知られていない。また、19世紀末ごろ、ゼウス像の建造に使用されたと考えられる工房が発見され、この発見によって、ゼウス像の全容の解明が進められた。
ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
ハリカルナッソスの墓廟ともいう。
アケメネス朝ペルシアのカリアのサトラップ (州総督) マウソロスのために小アジアのハリカルナッソスに建造された壮麗な墓廟として伝わっている。
サトラップ・マウソロスの生前に着工されたが、彼の死 (紀元前353年) の方が早かったと考えられている。その後、妃のアルテミシアが建設を継続し、妃の死 (前 351) 後に完成を見たという。
その後、アレクサンドロス3世がこの地へ進出しても、ローマ帝国がここを支配するようになってからも、霊廟はこの地に建っていたが、次第に地震や老朽化などによって崩れ始め、11ごろには土台が跡をとどめるのみとなっていたという。
その後、十字軍遠征が行われるようになると、騎士たちによって棺の間が暴かれ、略奪されたと考えられている。十字軍騎士たちが略奪したのち、15世紀ごりになると、自然の脅威によって破壊され、幻の建造物となった。
設計はサチュロスおよびピュテオス,東西南北の装飾彫刻はそれぞれ著名な彫刻家として名が知れていたスコパス、レオカレス、ティモテオス、ブリュアクシスが担当したとされているが、彫刻などは少し失われている。
建造当時、面積 29m× 35.6m,高さ 50mであった。各面の彫刻、フリーズは発掘され,ロンドンの大英博物館に収蔵されている。またローマ人は類似の大規模な墳墓建築もマウソレイオンと呼んだ。今日では英語「mausoleum」は、もともとこのハリカルナッソスのマウソロス霊廟を指す固有名詞だったが、のちに墓廟をさす語として用いられるようになった。マウソレイオンは、その特異な形と複雑な装飾から世界の七不思議の一つとされた。
余談だが、日本の国会議事堂の屋根の形や建築様式は、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟をまねたという。
ロドース島のへーリオスの巨像
東地中海・現トルコのアナトリア半島とギリシャの中間地点に存在する、エーゲ海ロードス島の玄関口に建っていたとされる巨像である。その彫刻は、太陽神へーリオスの勇ましい姿を現したとされている。
この彫刻は、ロードス島の玄関口デロスに築かれた。建設されたのはのはヘレニズム時代で、その当時、デメトリオス1世の攻囲(包囲のために彼は「ポリオルケーテース(攻城者)」の異名を得た)を耐え抜き、デロスは主要な貿易港として繁栄を謳歌し、地中海貿易の一中心としてエーゲ海一の海軍力をも擁した。
それを記念して市神ヘリオス(太陽)の青銅コロッソス(巨像)を建てることが決められ、その強大なロードス島の力を背景にしてこの像の建設は進められた。完成後、巨像の建設によって、デロス市は脚光を浴びた。また、その神々しい姿から、後世これは古代に七不思議の一つに数えられた。
全長はなんと34メートルで、これは東大寺の大仏に匹敵する大きさである。そのうえ、台座まで含めると約50メートルもの大きさになり、現代のアメリカ・ニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさであったという。
また、稀に、「へーリオスの像」としてではなく、ヘーリオスは同じく古代ギリシャの太陽神のソルやアポロン(ローマ名アポロ)と混同されたため、アポローンの巨像であるとして紹介されて「アポロの巨像」とも呼ばれることもある。
しかし、へーリオス像は紀元前227年、あるいは紀元前226年に倒壊した。こうしてロドスの巨像は残骸すら消失した。そのため、7世紀以降の人間はその姿を想像するしかなく、その過程で多くの誤解や伝説が生まれた。
その最たるものは、巨像はデロスの街へ通じる運河の入り口のところに、その運河をまたぐようにして巨像が建てられたという伝説である。この場合は港口の防波堤の両端に台座を設置していたことになる。
従来はこの説が広く信じられており、余計に壮大さが増す結果となったが、現在の研究では、港口をまたぐ姿勢は全長が大きくなりすぎ、耐久性も弱くなるため、古代ギリシャの建築技術においては、まず不可能なプランであると考えられている。それらの想像はほとんどは後世のヨーロッパ人の妄想のたまものであり、本来は上の画像のような姿をしていたと考えられている。
また、巨像は手に器を持っており、中には煮えた油や鉛が満たされ、港に不法に侵入してくる船があれば内部のからくりで容器が傾き、油や鉛を船目掛けて注ぎ落としたとするものもある。
詩人アポロニオスが長期に滞在し、トロヤの神官とされる神話中の人物ラオコーンの像も当市で発見された。
アレクサンドリアの大灯台
紀元前3世紀頃にエジプトのアレクサンドリア湾岸のファロス島に建造された灯台である。ファロス島の大灯台或いはアレクサンドリアのファロスとも呼ばれる。
通常、世界の七不思議としてみなされているが、ビザンティウムのフィロンの選出した七不思議には含まれていない。
紀元前332年、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)によるエジプト支配の都城として、ナイル河口にアレクサンドロス自身の名を冠したアレクサンドリア(アレクサンドレイヤ)が建造された。
その後、東方遠征の途中志半ばにしてアレクサンドロス大王がバビロンにて死去したのち、エジプトは彼の部下であるプトレマイオス1世ソーテールが建国したプトレマイオス朝エジプト王国の統治下に置かれた。
プトレマイオス朝はアレクサンドリアを首都としたが、この都市の周辺は平坦な土地が広がっており、沿岸航行や入港の際に陸標となるものが何もなかった。そのためプトレマイオス1世は陸標となる灯台の建造を決定した。
プトレマイオス1世の発案とされているが、実際にはアレクサンドロス大王がこの地を訪れた時、巨大な唐代の建設を考え、プトレマイオス1世がその遺志をついで大灯台を完成させたと考えられている。
プトレマイオス1世の死後はその息子2世が後を引き継ぎ、ついに完成させた。灯台の全高は約134メートル(約440フィート)の高さを誇ったとされており、ギーザの大ピラミッド(高さ約147メートル)をのぞくと建造当時は地球上で最も高い人工物の1つだった。
建材には大理石がふんだんに用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていった。形状の異なる3つのセクションで構成されており、方形の基層部の中央に塔があり、下層部は四角柱、中層部はひとまわり細い八角柱、上層部はさらに細い円柱形だった。
頂点には巨大な鏡が置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていた。
それから、約3世紀の月日が経過したのち、ローマ帝国の支配下に入ってもアレクサンドリアの大灯台は健在であり続けた。その後約5世紀にわたって大灯台はアレクサンドリアの盛んな地中海諸都市との交易を支えた。
796年の地震で大灯台は半壊し、その後の14世紀前半の二度の地震によって全壊した。イスラームの著名な旅行家、イブン・バットゥータは、崩壊のために中に入ることもできないと記している。が、七不思議の中ではギーザの大ピラミッド、マウソロス霊廟に次ぐ長命な建造物だった。
余談になるが、中国、南宋王朝の泉州領主が書き記したとされている「諸蕃志」なる書物には、勿斯里(ミスル エジプトのこと)の遏根陀國(アレキサンドリア)の徂葛尼(ズルカルナイン=双角王アレクサンドロス)による大塔とその鏡が外国人によって捨てられたという内容の伝説が書き記されており、中国にまで大灯台の威容は知れ渡っていたことがわかるであろう。
(世界の七不思議に入れられることもあった)バビロンの城壁
バビロンの城壁は、新バビロニア王国の首都バビロンを取り巻く城壁である。
高さ90m、厚さ24m、総延長は数十kmにおよび、100の門と250の塔をそなえる威容を誇っていたと言われている。この中で有名なものにイシュタル門がある。このイシュタル門は、新バビロニア王国の南北の王宮をむすぶ通りの上に存在し、門は青く焼かれたレンガで築かれた。また、門には霊獣ムシュフシュが彫られていた。
当初、ビザンチウムのフィロンによる世界の七不思議のひとつに数えられていた。しかしバビロンの空中庭園と同一視されたためか、後世になってアレクサンドリアの大灯台と差し替えられるようになったとされている。
城壁は二重になっていて、「生命の樹」という不老不死になる力を持つ木を王が探しに行くために、門を開ける儀式があった。
さて、いかがだっただろうか?後世、ビザンティウムのフィロンをはじめとする、様々な書き手たちが、古代ギリシャの旅行者たちの間で広く知られた案内書や詩文の中で言及していたおかげで、今、我々は古代のロマンに思いをはせることができるのだ。
また、ここに紹介したほかにも、前述のように「中世世界の七不思議」がある。これは、ローマのコロッセウム、アレクサンドリアのカタコンベ、中国万里の長城、イギリス・ストーンヘンジ、イタリア・ピサの斜塔、南京の大報恩寺瑠璃塔(陶塔)、イスタンブールのアヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)の7つが挙げられている。これはこれで、中世世界を理解するうえで重要なものを集めているので、これはこれで興味深いものとなっている。
「現代版世界の七不思議(新・世界の七不思議)」は、中国の万里の長城、インドの廟堂タージ・マハル、イタリア・ローマの古代競技場コロッセオ、ヨルダンの古代都市遺跡群ペトラ、ブラジル・リオ・デ・ジャネイロのコルコバードのキリスト像、ペルーのインカ帝国遺跡マチュ・ピチュ、メキシコのマヤ遺跡チチェン・イッツァである。
「世界の七不思議」は、今でも、我々の心をつかんでやまないのである。
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