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  • tantamani0

多種多様な "記念柱"



現在、世界各地には「記念柱」と呼ばれる記念物が数多く残っている。しかし、「記念柱」と一口に言っても多種多様なものが存在し、地域地域の歴史や民族、宗教、文化を示す遺構となっている。


記念柱は、英語では''Memorial pillar''という。また、「記念柱」定義とは、主に君主自ら、又は後世の人物がその君主などの業績を記念して建立する象徴的な柱のことを指す物である、という。


記念柱は、古い時代から皇帝・王など君主たちの軍事的な成功や栄光、その権威を象徴するための記念碑としての役割を持っており、時折目立つように配置されることも多い。塔よりも小規模で、人物の業績を記念して建立する象徴的な意味合いであるために一般的な塔とは目的が異なっており、それらとは区別される。記念柱には多様な名称がつけられており、古代エジプトでは「オベリスク」、古代エチオピアでは「ステッレ」などと呼ばれ、盛んに建造された。


また、主に記念柱と呼ばれる柱は、他の一般的な「柱」とは異なり、上に屋根や家屋などを頂いておらず、それ一本一本が独立した形状となっている。しかし、古代エジプトのオベリスクなどは大方、パイロンと呼ばれる大門の手前に二対となって建立されている。


西洋の記念柱は、主にギリシャ建築やローマ建築の柱をモデルとし、その頂上には捧げられた人物の像を戴いているものが多い。


古代インドの「アショーカ王柱(アショカピラー)」は、表面に東部プラークリットで碑文が刻まれており、仏教の教えを刻んでいる。漢風に「阿育王塔」とも呼ばれるこの記念柱は、プラークリットで碑文が刻まれており、仏教の歴史の解明にかかせない貴重な資料となっている。


柱のほかに岩に刻まれた碑文もあり、こちらは東部プラークリットのほかに西部プラークリット、ガンダーラ語、およびギリシア語とアラム語の二言語で記されたものがある。


また石柱にはさまざまな文章が書かれているが、現存する仏典と一致しないものも多く、仏教思想の変遷の跡が認められる。 また、漢訳の仏典で菩薩に相当する部分が、石柱では「ブッダ」と表記する部分に相当し、大乗仏教における「菩薩思想」が登場する以前の資料としても注目され、現在も研究が続けられている。


オベリスクは、古代エジプトの数多く建設された。オベリスクの名称は後世のギリシャ人がobeliskos(串)と呼んだのが起源で、当時のエジプトでは「テケン(保護・防御)」と呼ばれていた。なお、日本語では方尖柱(ほうせんちゅう)と呼ばれることもある。


また、古代エジプトのオベリスクのほとんどは、四角形の断面をもち、上方に向かって徐々に狭まり、先端はピラミディオン型になっている高く長い直立の石柱であり、物によっては重量が数百トンにも及ぶ事もある。


後の時代にローマ帝国がエジプトに侵攻すると、オベリスクは戦利品として頻繁に略奪された。4世紀に首都となったコンスタンティノープル競馬場にも略奪したオベリスクが運ばれ、現在のトルコ・イスタンブールにも残っている。以降の時代も欧州諸国からの略奪は続き、それらの国の公園や広場の装飾品に用いられた。フランス・パリの中央に存在するのコンコルド広場や、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂のファザード前、のサン・ピエトロ広場にあるオベリスクはよく知られている。


そのため、現代エジプト国内に残されたオベリスクはカルナック神殿やルクソール神殿、その他にも南部のヌビア地域などにわずかに残るのみとなった。


また、オベリスクの起源は、太陽信仰のヘリオポリスの聖なる丘である「ベンベン」を模式化したものと考えられている。オベリスクの場合、「何々の記念柱」と言うような名称はついていないが、自身の賛辞を刻み、神殿に自身を記念して建立したという点では、「記念柱」に分類されると言えよう。


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ローマ人たるカエサルは、マランガに到達していた。 663656503938186649391918303730395048502810294937164928493716492836166659294036461048293019461048293019593066273766561836493716492820302757203027

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