洛陽宮(中国語:洛阳宮、英語:Luoyang Palace)は、古代中国・洛陽に存在した城壁に囲まれた皇帝の宮殿の総称だ。
宮城は洛陽中に1040m四方の規模を占拠した。宮城の北には3重の城壁、宮城の両側にも2重の城壁が更に宮城の南には皇城が位置する。また、皇城の東西規模は2100m、南北は725mである。さらに、宮城、皇城の東側には東城と含嘉倉(がんがそう)城とがある。これらは中心の宮城を何重にも取り巻いて防御していたとされている。
中国古代の王朝では渭水流域の軍事力と結びついた長安と華北平原の経済力と結びついた洛陽が対になって首都機能を担う形が出来上がっていき、後漢・曹魏・西晋・北魏・隋・後唐などにおいて都が置かれている。
主に、洛陽宮と呼ばれるものは2つある。一つは漢代洛陽城、二つ目は隋・唐代洛陽城である。
古代中国・洛陽の地には、古くから中華文明の中心に位置し、北に邙山、そして黄河、南には洛河が控える交通の要所であった。その為、古くからの帝国の都城が置かれた地で、古代中国の真ん中にある重要な政治の中心地ともなった。その為、古くは西周、殷の時代から都城が開かれた、という伝説も残っている。
その洛陽宮と呼ばれる宮殿建築の始まり、洛陽の歴史の出発点は古代西周の時代にさかのぼることができる。紀元前1050年ごろ、西周成王の時代に東方経営の拠点の中心地となすべくして「洛邑」と称される都城が築かれ、王城などがはじめてこの地に構築された。その時代の洛陽宮の置かれた洛邑の地は「東の都(東都)」と呼ばれたという。
その後500年以上のち、幽王の享楽と犬戎の侵入の続く長い戦乱により荒廃した渭水流域の宗周鎬京城(後の長安)より都が洛陽宮に遷された。こうした経緯から、中国古代の王朝では渭水流域の軍事力と結びついた長安と華北平原の経済力と結びついた洛陽が対になって首都機能を担う形が出来上がっていく。
そののち、古くから都城が開かれた洛陽の地は、[[後漢]]時代の[[都]]と成った。後漢洛陽城になるとそれまでまちまちであった正門の方向が南に定められ、正殿も正門も南向きに統一された。その正門の南に天を祀る祭壇である円丘を設置した。
初平2年(191年)4月、後漢末期に専横を極めた董卓が洛陽宮及び洛陽城を焼き払い、前漢の都であった長安に強引に遷都を行い、繁栄を極めた帝都・洛陽の市外や宮殿は灰塵に帰した。その後、後漢が滅亡すると、そこには新たな王朝と成った魏王朝(曹氏)の都城が許都から遷され、置かれた。その時、董卓による遷都の結果荒廃していた洛陽城の復興を推し進め、初代文帝の頃には魏洛陽宮の建設も完成した。
その後、第2代明帝の治世中には宗廟、北西に位置する出城・金墉城の建設、青龍3年(235年)には昭明殿と言う楼閣、芳林園と言う苑までもが建設され、帝都としての威容を誇る姿となった。芳林園には築山なども造られ、多くの植物が植えられた。これらの大規模な建設事業により、帝都洛陽城は後漢時代の洛陽と遜色ない都となる。
魏晋南北朝時代、北魏の時代の洛陽宮では、宮城正殿と正門、内城正門、円丘が南北軸線上に配置され、この軸線が洛陽外郭城の中心に位置するという新しい特徴が出現する。北魏洛陽宮は宮城、内城、外郭城からなった。
隋の時代から唐の時代にかけて用いられた洛陽宮(隋唐代洛陽宮、中国語:隋唐洛阳宮)は、隋の大業元年(605年)に造営された。一時、武周の時に「神都」として都となったり、唐末の混乱時に都城と成ったりもしたが、通常は都ではなく、「陪都」という建前であった。
北魏時代の洛陽城は、内城の規模は東城壁が3895m以上、西城壁4390m以上、北城壁約3700mあり、南城壁は洛河によって破壊されている。内城には計13の城門があり、一部は発掘調査されている。
宮城は内城の北やや西寄りに位置し、南北1398m、東西660mの規模である。東西の門をつなぐ道路によって南北に2分され、南半部に主要施設が集中する。奈良文化財研究所は2008〜2011年に、中国社会科学院考古研究所と共同で宮城中枢部を発掘調査した。宮城の正殿である太極殿は宮城南半部の西寄りに位置する。その真南には宮城正門の閶闔門(しょうがいもん・宮の正門・1号門)が位置し、その間には2号門、3号建物を確認した。(中国社会科学院考古研究所ほか2009・2010)。閶闔門は中央に門があり、両翼に閑をもつ特殊な構造であった。この形は魏晋時代に造営され北魏まで踏襲されていたことが発掘調査で判明した(中国社会科学院考古研究所洛陽漠魂考古故城隊2003)。また、宮城西南隅の調査では、魏晋から北周までの宮城壁の変遷をあきらかにした。
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